◇柳生街道

柳生街道は春日山と高円山の谷あいの道を通り、奈良市街地から柳生まで通じる古道です。

沿道に誓多林(せたりん)、忍辱山(にんにくせん)など、インドの聖地に見立てた仏教由来の地名が今でも残っていることから、奈良・平安時代にはすでの山岳仏教の道場となっていたと考えられます。

そして今から約300年前、柳生新陰流が興されて以来、柳生の里には柳生街道を通り、「柳生の剣」を求める武士が行き交ったと言われています。

コースや場所によって様々な時代・風景・自然の表情を感じることができる柳生街道へ、ぜひ出かけてみましょう。

◇柳生街道(滝坂の道・剣豪の道 動画紹介)

【滝坂の道(奈良市内⇒圓成寺)】

【剣豪の道(圓成寺⇒柳生)】


◇柳生街道ガイドマップ

◇ 柳生街道(YAGYU KAIDO)

 

 

1.COURSE01 滝坂の道 Takisaka-no-michi Path

難易度★★  移動距離 約12km(近鉄奈良駅から円成寺まで)
2.COURSE02 剣豪の道 Kengo-no-michi Path

 難易度★★★  移動距離 約9km(円成寺から柳生バス停まで)
3.COURSE03 柳生・笠置の道 Yagyu-Kasagi-no-michi Path

 難易度★  移動距離 約11km(柳生バス停からJR笠置駅まで)
の3コースに分かれたマップです。

 

冊子製作・問合せ 奈良市東部出張所 0742-93-0001 (日本語・英語・フランス語)

http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1491521083688/index.html

  

 

◇近畿日本鉄道 (てくてくマップ)

・【奈良-3】 柳生街道(滝坂の道) コース
https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara03.pdf

・【奈良-4】 柳生街道(剣豪の里) コース
https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara04.pdf

・【奈良-5】 柳生・笠置周遊 コース
https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara05.pdf

の3つに分かれたマップです。


◇柳生街道(柳生⇒円成寺⇒滝坂の道の史跡・名勝・石仏)

寝仏(夜泣き地蔵)

疱瘡(ほうそう)地蔵に向かう柳生街道(東海自然歩道)沿いにある阿弥陀如来像です。桃山時代の作風と言われています。



中村六地蔵

疱瘡(ほうそう)地蔵に向かう柳生街道(東海自然歩道)沿いにあります。像脇に室町時代「明応十年(1501)酉辛三月十四日」の銘があります。



疱瘡(ほうそう)地蔵と徳政碑文

「ほうそう地蔵」の右下に「正長元年ヨリサキ者、カンヘ四カンカウニ、ヲヰメアルヘカラス」と刻まれており、大正年間に地元柳生町の郷土史家杉田定一氏により、「正長元年(1428年)以前の神戸四箇郷(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地)の借金は取り消された」と徳政の記念碑文であることが明らかにされました。室町時代の土一揆によって行われた債務の放棄(徳政)について民衆側が刻み残した資料として歴史的価値の高いものです。



かえりばさ峠(阪原峠)

柳生から阪原の間にある一体山系を超える峠。急な坂道が続きます。

昔花嫁が西の阪原・大柳生から東の柳生へ嫁入りする時、ここで故郷の名残を惜しみ、ふりかえったので、この峠を地元の人々は「かえりばさ」と呼んでいます。



おふじの井戸

「お藤」がこの井戸を利用していつもと同じように洗濯をしていたところ、偶然柳生宗矩がこの井戸の近くを通りかかり、美しい顔立ちのお藤を見つけて名を尋ねるのみならず、何を思ったのかお藤に対し、「洗濯桶の中にある波の数はいくつか?」といった少し意地悪な質問をしたところ、お藤は決してひるむことなく「波の数は二十一でございます。」と答えたばかりか、「お殿様がここまでやって乗って来られた馬は何歩歩いたのですか?」と言うように言い返し、結果宗矩が恥をかくような格好となりますが、お藤の機転の利く姿、才気に惚れ込んで自らの妻としたというエピソードとなっています。なお、阪原の里には現在まで「仕事せえでも器量さえよけりゃ、お藤但馬の娘になる」という里歌が残されています。



南明寺

宝亀2年(771)の創建といわれる古寺。本堂〔重文〕は鎌倉時代の寄棟造りで、本尊薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の藤原三仏〔いずれも重文〕が安置されています。境内には鎌倉時代の宝篋印塔、室町時代の十三重石塔などがあり、近くに柳生宗矩とお藤の恋を伝える「お藤の井戸」があります。



水木古墳

水木古墳は大柳生盆地の南東にある直径約16mの円墳で、墳丘の周縁には1~4段の石積が廻っています。埋葬施設は横穴式石室で、石室内から土師器や須恵器、鉄鏃、馬具などが出土しました。これらの出土遺物から6世紀後半から末の古墳と考えられます。

古墳時代後期の古墳は群集していることが多く群集墳と呼ばれますが、水木古墳は丘陵上に単独で存在する古墳です。奈良市東部を代表する後期古墳として歴史的に重要で、学術的価値も高いと評価されています。



夜支布山口神社

「夜支布」と書いて「やぎう」と読む。大柳生の里を見渡す高台に立つ神社で、この里の氏神であり、平安時代の『延喜式』にも見られる古社。水の神、祈雨の神として信仰を集めてきました。また、境内には摂社、立盤(たていわ)神社が鎮座する。御神体は地面に突き立ったような巨石で、正面斜めから拝します。春日大社の記録や、社殿から見つかった墨書によれば、現在の社殿は春日大社の享保の造替時に造られた本社本殿の第4殿を、延享4年(1747)に移したものであることがわかっています。



藤の森(不浄の森・不自由の森・常磐の森

柳生では男性は柳生新陰流、女性は長谷川流棒術を学んだと言われています。
長谷川流棒術とは、柳生町の長谷川家に伝わる武術で、源流は鞍馬兵法といわれています。来歴は明確ではないですが、口伝では、京都から逃れる途中の常磐御前が藤の森で産気づいた時、通りがかった長谷川金右衛門(開祖)が柳生に連れ帰って母子を介抱し、後、成長した源義経(牛若丸)がその御礼に、金右衛門に鞍馬で術を教えたという伝説が残っています。


忍辱山 円成寺

境内には鎌倉時代の建築物である春日堂・白山堂(国宝)をはじめ、室町時代再建の本堂(重要文化財)、楼門(重要文化財)、平成に入ってから再建された朱色の多宝塔などが建っています。寺宝の数も多く、運慶の20歳代の傑作として知られる大日如来像(国宝)があります。平安中期の創建といわれ、国の名勝に指定されている境内の庭園は藤原時代の作庭。舟遊式と浄土式を併せ持つ当時の都好みを今に伝える貴重な遺構となっています。



忍辱山共同墓地

円成寺から柳生街道沿い、南西にある共同墓地で六体の地蔵が入口となります。
忍辱山の共同墓地には重要文化財、鎌倉時代後期(元亨元年 1321年)作られた高さ 238cmの五輪塔があり、そこに行く手前に道が左右に分かれるところに石造の七仏阿弥陀像が立っています。

蓮台に座った定印の阿弥陀像を上に1躰、その下に左右にお行儀よく3躰ずつを2列に、肉厚に刻み出す。その間に年(元亀2年とあるので、1571年)を、またそれぞれの仏の脇には「ゴ八」「マタ六」などといった名前を刻むという珍しいものです。



笠地蔵

 剣道184号線の道路から少し上のところにある。高さは約1.5メートル。

鎌倉後期の作と言われている。

 



五尺地蔵

茶畑の中にあるお地蔵さん。ほぼ1メートル50センチの肉厚彫りの地蔵さんで、南北朝期の作とされています。その左には、如意輪観音さん「文化十一年」の年号が見える。その横に十九夜観世音講中の銘があり、この村の女人衆が立てた十九夜塔で、十九夜の晩に若い女人が集まり、如意輪観音を拝み安産祈願したものと言われています。



地獄谷石窟仏

平安時代の作とみられ、石を切り出すための凝灰岩質の岩盤をくりぬいた洞窟の壁に、釈迦如来像とその左右に薬師如来と十一面観音、右壁面には如意輪観音、左壁面に阿弥陀如来坐像と千手観音の計6体が線刻されています。洞窟は開口3.9m、奥行き2.9m、高さ2.4m。経年変化で退色しているものの、各所に美しい彩色の跡が見られ、洞窟内に生えた苔の緑色とのコントラストが特徴的です。これらは、大仏殿建立に際し、石材採りの石工が彫刻した説や山伏が岩窟に寝起きして彫刻したとする説などがあります。



春日山石窟仏

柳生街道石切峠に近い南面傾斜地に露出する凝灰岩の岩壁を龕状に掘り、その壁面に仏像を刻んで彩色したもので相接する東西の2窟から構成さます。西窟には久寿2年(1155年)および保元2年(1157年)の造立銘が刻まれていることから、平安時代末期(12世紀中期)の作品とみられています。久寿2年の銘は現状では年号の部分が欠損していますが、近世末期の記録により、久寿2年と確認されています。

東窟は間口約5メートル・奥行約2.4メートル・高さ2.4メートルで中央柱4面に顕教系の如来坐像4体、東壁に菩薩形立像3体、西壁に地蔵菩薩立像4体を表し、東西両壁に天部立像各1体(二天像)を表しています。



首切地蔵

柳生に通じる柳生街道の滝坂の道の終点付近にある三叉路に立つ、首の部分で2つに割れた地蔵で、剣豪の荒木又右衛門に試し斬りされたとの伝説が残ります。像高約1.8mの地蔵菩薩で、鎌倉時代の作とされています。



朝日観音

滝坂の道の途中の渓流沿いにある大きな三尊仏の磨崖仏。

早朝高円山の頂からさしのぼる朝日に真っ先に照らされることから名づけられたもので、実際には左右に地蔵菩薩、中央に弥勒菩薩の三尊仏です。この石像には文永2年(1265年)の銘があり、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この下の夕日観音と同じ作者と思われます。



夕日観音

弥勒信仰の盛んだった鎌倉時代の弥勒磨崖仏で、夕日に染まると美しく浮かんで見えます。
街道からかなり高い位置にあります。



滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏

南北朝時代の作と考えられる。
夕日観音のすぐ近くにあり、街道から山側の上に見える位置にあります。少し距離があります。



寝仏

滝坂の道、最後の石仏。巨石の裏側に大日如来の坐像が彫られていいます。

風化によりわかりにくくなっていますが大日如来が手を合わせているのが見えます。



旧柳生藩南都屋敷
(旧奈良市役所(現ならまちセンター))

猿沢の池近くに「旧奈良市役所(現ならまちセンター:奈良市東林寺町)」があります。この場所は「旧柳生藩南都屋敷」があった所で、柳生石舟斎宗厳から四代目の柳生宗冬の代に建設されました。柳生家の領地は、柳生近辺の山間部より、むしろ奈良市の南方の三ヶ村、天理市北部の十二ヶ村と、平地部が多かったので、その連絡場所が必要でした。当時、興福寺と春日社家との間に争論があった時、宗冬が仲裁を頼まれてうまくまとめたご縁で、猿沢池の南方にあった光林院という塔頭寺院が無住になっていたのを譲り受け建てたものだと言われています。