柳生八坂神社の元社です。創建は正治年間(1200年頃)の伝へがあります。今の社殿は元禄4年(1691年)の建築で県指定の文化財となっています。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。相殿に八幡大神・春日大神が鎮座し、末社に稲荷神社、御霊神社・吉田神社(合祀)と、天手力雄神社・明治8年松毛の森から遷座した宗像神社(合祀)との三社があります。
大保町尾羽根の共同墓地に行く途中にある六地蔵です。
大和高原地域には多数の六地蔵が見られます。
大保の共同墓地にある、2体の地蔵です。
大保集落から、一体山に向かう途中にあります。刻銘はなく、作風から見て、室町後期に造られたと考えられています。以前は、横たわっており寝地蔵といわれていましたが、今の場所に移され真っ直ぐに立て直されました。
大保町南部の共同墓地から山道にすすむと三体磨崖石仏があります。さらにその奥にすすむと1体の石仏があります。
大保町南部の国道369号線沿いの民家の上部の急斜面に斜めになった三体磨崖石仏があります。地蔵脇に枠取りを造って、「天文六年(1537)酉丁十月十日西阿弥陀仏」の刻銘があります。
急傾斜の石段が続きます。創祀・由緒など定かではありませんが、およそ300年前に、大北彌房という人の鎮守であったのを、村の氏神としたとの伝承があります。
祭神は管原道真公(学問の神)。 末社は八幡神社、手力男神社。毎年10月の例祭の宵宮祭には、大人による翁舞式三番が能舞台で奉納されます。奉献石灯籠は、正徳2年(1712年)のものがいちばん古いとされています。
興ヶ原町の中心部 布目川沿いの両岸に桜並木があります。
橋のたもとには布目桜の石碑があります。
興ヶ原村に生まれた庄七は25歳で大庄屋を受け継ぎました。興ヶ原村の水田はしばしば干ばつの被害を受けたことから、1851(嘉永4)年に布目川の水を引く工事を行いました。しかし水路の各所に漏水があり、自らの財産をつぎ込んで補修工事を継続します。1854年(安政元)年の大地震により水路が
壊滅すると庄七への非難が高まり、村から郡山藩へ訴えられ大和追放、財産没収となり失意の晩年をおくることになるのですが、その旺盛な社会奉仕の精神を称えるため顕彰碑が建てられています。
興ヶ原町はすでに鎌倉時代から「興原」「桶原」などと表記されて史料に登場します。承久四年(1222)に、興福寺領丹生杣を併合しようとした「興原」の地頭代官が幕府に訴えられており、幕府はこれについて「興原地頭」に陳弁するように命じています。この史実から、鎌倉幕府が全国に配置した地頭のうちの一人が当地にいたことが分かりますが、興ヶ原氏との関連は不明です。
遺構は、郭、堀切、土塁、などがあります。写真は主郭部分です。
1961年に柳生区連合自治会を中心として柳生町内向けに出版された「村史柳生のさと(256ページ)」に記載があります。柳生町の一刀石、扉岩とともに興ヶ原町の7ツ岩(①さるが岩、②こしき岩、③みつ岩、④はちが岩、⑤こうもり岩、⑥げじ岩、⑦しょうじ岩)として紹介されています。①②③については、字として地名に残っているため、巨石の所在が確認できますが、④⑤⑥⑦については現在調査中です!
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※以下はみつ岩
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中南氏所蔵の「棟札数記」によりますと永禄五年(1562)以前の創立であることが立証されています。祭神は天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)。境内には末社、春日神社、東神社、秋葉神社、津島神社、天満神社、金刀比羅神社、八王子神社、御霊神社、稲荷神社、鍵乃森神社があります。水越神社社叢(しゃそう:社殿や神社境内を囲うように密生してる林)は奈良市の指定文化財となっています。また、秋の例祭に行われる神事芸能であるじんぱい(神拝)翁舞、相撲は県指定無形文化財となっています。
県道4号線から県道25号線へ橋を渡った正面にあります。その数53体。もともと安楽寺という寺があったところで、明治初年邑地にあった、南性寺、安楽寺、東立寺を集めて東福寺の名称で残しましたが、小学校の拡張で、もとの南性寺跡に写し、現在は東立寺の石仏だけ残ったもので、元亀四年(1504)七月造と『大和志』に記述が残されています。道路に面していましたが、道路交通が頻繁となり、現在の場所に移されました。
邑地上出バス停近くにある石仏です。由来等は不明です。
桃山時代から江戸時代にかけて彫られた「磨崖阿弥陀如来像(慶長五年庚子十月十五日)」「磨崖地蔵菩薩像(天正十一年葵末/十一月十五日)」「磨崖阿弥陀・六地蔵像(寛永十八年正月十五日)」などが見られます。
国道369号線、神田橋のたもとにある個人墓地です。江戸時代の作風と言われています。
幸田の墓碑石仏磨崖から、布目川を隔てた川に面した所に地蔵があります。
布目ダム、ダムまほろば広場近くにある磨崖仏1体と弘法大師像1体です。その近くには、灯籠と自然石六字名号碑なども見られます。
城跡は在地土豪であった邑地氏(村地氏)の居城であったとみられています。遺構は、郭、土塁が残っています。東西の尾根上に湾曲させた形で郭を並べ、西側の最高所に主郭があります。写真は主郭部分です。
※主郭までの山道は整備されておりません。山に入る場合は近隣の方に了解を得てから入って下さい。
1961年に柳生区連合自治会を中心として柳生町内向けに出版された「村史柳生のさと(256ページ)」に記載があります。柳生町の一刀石、扉岩とともに邑地町にある巨石として紹介されています。
本殿は棟木に嘉吉2年(1442)の墨書があり、昭和2年に特別保護建造物(旧国宝)に指定され、現在は国の重要文化財に指定されます。社伝によると、かつては丹生都比売命(にうつひめのみこと )を祀っていたとされます。
丹生町集落の北東はずれにある磨崖仏。小さな橋を渡り、細い道をすすむと、手前に2箇所、その奥に1箇所、さらにその奥に1箇所の磨崖仏がみられる。江戸時代代寛文十年(1670)・天和二年(1682)の年号が見られる。
丹生神社近くの製茶場前にある供養碑。「南無浅間 宝暦十一(1761) 辛巳6月7日」の銘が見られる。
邑地町から丹生町に行く道沿いから山奥に入った所に、磨崖地蔵があります。
柳生地区内でも最大級の岩と思われます。
下丹生城跡は、「大和志」に記載される「下丹生村」の「塁址」に相当するため、「奈良市史」では「下丹生城」として扱っています。在地土豪で興福寺の国民に列した丹生氏の居城であったとみられます。丹生将監の嫡男平蔵には柳生宗厳の六女が嫁ぎ、丹生平蔵は肥前唐津城主寺沢広高に仕えたといわれています。遺構は、郭、堀切、土塁などが残っています。写真は堀切跡です。
下丹生城跡は、「大和志」に記載される「上丹生村」の「塁址」に相当します。遺構は、郭、土塁などがわずかに残っています。
※主郭までの山道は整備されておりません。山に入る場合は近隣の方に了解を得てから入って下さい。
布目ダムの建設時にダム湖となる場所から、今の場所に移設されまれした。山の神の石碑の向こうには、山添村の神野山が見えます。
山添村と奈良市との境目にある布目ダム。湖の北側にはダムまほろば広場、東側には牛ヶ峰コスモス公園、南側の副ダム周辺には桐山さざなみ広場や大橋ほのぼの公園が設けられており、遊歩道や休憩所で遊ぶことができます。
山添村にある桐山戸隠神社より、永正5年(1508)に分社されたと伝えられます。天明5年(1785)の火災で本殿など消失したそうですが、すぐに再建されています。万治3年(1660)奉献の石燈籠が有ります。
祭神は手力雄命(あめのたぢからおのみこと)・八幡大神。 境内社は春日神社(天児屋根命:あめのこやねのみこと)、 末社は津島神社(須佐之男命:すさのおのみこと)
本堂文化五年(1808)の再建で、昭和初年に大改修が行われました。
本尊は不動明王立像で平安時代の作。その他、本尊脇立、地蔵尊、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、弘法大師等が見られます。
江戸時代末には末寺が八ヶ寺あったそうです。明治維新までは、明王院の僧侶が戸隠神社の祭事に関係し、神仏混交で儀式を営み、遷宮を行い神社を兼務していたということです。