「お藤」がこの井戸を利用していつもと同じように洗濯をしていたところ、偶然柳生宗矩がこの井戸の近くを通りかかり、美しい顔立ちのお藤を見つけて名を尋ねるのみならず、何を思ったのかお藤に対し、「洗濯桶の中にある波の数はいくつか?」といった少し意地悪な質問をしたところ、お藤は決してひるむことなく「波の数は二十一でございます。」と答えたばかりか、「お殿様がここまでやって乗って来られた馬は何歩歩いたのですか?」と言うように言い返し、結果宗矩が恥をかくような格好となりますが、お藤の機転の利く姿、才気に惚れ込んで自らの妻としたというエピソードとなっています。なお、阪原の里には現在まで「仕事せえでも器量さえよけりゃ、お藤但馬の娘になる」という里歌が残されています。
宝亀2年(771)の創建といわれる古寺。本堂〔重文〕は鎌倉時代の寄棟造りで、本尊薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の藤原三仏〔いずれも重文〕が安置されています。境内には鎌倉時代の宝篋印塔、室町時代の十三重石塔などがあり、近くに柳生宗矩とお藤の恋を伝える「お藤の井戸」があります
水木古墳は大柳生盆地の南東にある直径約16mの円墳で、墳丘の周縁には1~4段の石積が廻っています。埋葬施設は横穴式石室で、石室内から土師器や須恵器、鉄鏃、馬具などが出土しました。これらの出土遺物から6世紀後半から末の古墳と考えられます。
古墳時代後期の古墳は群集していることが多く群集墳と呼ばれますが、水木古墳は丘陵上に単独で存在する古墳です。奈良市東部を代表する後期古墳として歴史的に重要で、学術的価値も高いと評価されています。
「夜支布」と書いて「やぎう」と読む。大柳生の里を見渡す高台に立つ神社で、この里の氏神であり、平安時代の『延喜式』にも見られる古社。水の神、祈雨の神として信仰を集めてきました。また、境内には摂社、立盤(たていわ)神社が鎮座しています。御神体は地面に突き立ったような巨石で、正面斜めから拝します。春日大社の記録や、社殿から見つかった墨書によれば、現在の社殿は春日大社の享保の造替時に造られた本社本殿の第4殿を、延享4年(1747)に移したものであることがわかっています。
境内には鎌倉時代の建築物である春日堂・白山堂(国宝)をはじめ、室町時代再建の本堂(重要文化財)、楼門(重要文化財)、平成に入ってから再建された朱色の多宝塔などが建っています。寺宝の数も多く、運慶の20歳代の傑作として知られる大日如来像(国宝)があります。平安中期の創建といわれ、国の名勝に指定されている境内の庭園は藤原時代の作庭。舟遊式と浄土式を併せ持つ当時の都好みを今に伝える貴重な遺構となっています。
笠置寺は、柳生から北に車で約10分、徒歩40分に位置し、京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は鹿鷺山。本尊は弥勒仏。開基は大友皇子または天武天皇と伝えられています。歴史的に南都の東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、日本仏教史上重要な寺院です。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られています。
境内には修験道の行場めぐりがあり、「正月堂」「虚空蔵磨崖仏」「ゆるぎ岩」など多数のスポットがあります。
昭和39年4月1日指定。
秋の紅葉シーズンには、特に多くの行楽客で賑わいます。
写真は自然公園内にある「もみじ公園」のライトアップの写真です。
布目ダム東側に位置する、山添村北野にある弘法大師ゆかりの巨石。
一枚の巨岩が自然に分裂したもので、そびえ立つ断崖絶壁(約16メートル)には桝の形を切り込み(桝型)、転がり落ちた下方の岩に一丈六尺の大日如来像を彫り、底部を岩窟にして護摩壇を設けています(岩屋)。入口頭上に本尊とする金剛界大日如来像(室町時代初期)を刻んだものと考えられています。その昔、弘法大師が岩屋に大日如来を彫り、使用した「のみ」と「つち」を桝形に納めたといわれています。
近隣にはこういった桝形を形状したものがいくつか点在しています。
神野山の山腹に、沢筋に沿って650m以上にもわたって大小の黒い岩が河の流れのように連なっています。昔、神野山の天狗が伊賀の国の青葉山に住む天狗と喧嘩をして、青葉山の天狗が手当たり次第に草木や岩を神野山に向かって投げたため、飛んできた岩で鍋倉渓ができたという民話があります。岩の下流れる伏流水は、「やまとの水」にも選ばれています。
なだらかなスロープを見せる神野山(標高618.8m)は、
県指定名勝となっていて県立月ヶ瀬神野山自然公園に指定されています。
山頂からは360度のパノラマが広がり、春にはつつじが咲き誇り緑と紅のコントラストが山を彩り、また新茶の時期には茶畑の新芽が青空に映えます。
紅葉が山一面を覆う秋が過ぎると、うっすらと雪化粧します。
神野山は、夜になるとそのアクセスの良さから多くの人が天体観測に訪れています。
五月川の渓谷沿いに梅の木が広がる様から月ヶ瀬梅渓とも呼ばれま
す。約800年前の鎌倉時代中期に、真福寺の境内に梅が植えられたのが始まりとされており、大正11年に日本で初めて名勝指定を受けた梅渓は、五月川(名張川)をはさんで両岸に梅林が広がり、V字渓谷と梅林が融和した見事な景色が望めます。
月ヶ瀬観光協会
https://tsukigase-kanko.or.jp/
現在の三重県と京都府の県境になっているところですが、昔は旧大和街道の藤堂藩(伊賀の国)と柳生藩(山城の国)で国境論争が起こり、元禄12年(1699)幕府検使の指示により、それぞれの杭を合わせ設置された箇所とされている歴史的にも価値の高いものです。これより西は柳生藩という事になります。
この道を伊賀市向きに少し進むと藤堂藩の関所跡があります。
剣豪・柳生十兵衛の終えんの地と言い伝えられています。大きい弓状の淵になっていることが名の由来です。
慶安3年(1650年)、鷹狩りのため出かけた先の弓ケ淵で急死しました。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人たちも尋問を受けましたが、死因は明らかにならないまま、柳生の中宮寺に埋葬されあました。
また、術修業中の若者・大和国司の絃之丞と恋仲となった郷士の娘・夢姫が、父の許しを得られないために川に身を投げたという伝説から夢絃峡と名付けられました。
※写真は夢絃峡。弓ケ淵は撮影が困難なため。写真はなし。
第49代・光仁天皇は、天智天皇の孫であり、また万葉歌人として有名な施基親王(志貴皇子)の息子としても知られ、60歳を超えてから即位したという当時としては珍しい経歴も有しています。
皇太子の山部親王(後の桓武天皇)に譲位した直後の天応元(781)年に亡くなり、広岡山陵に葬られましたが、桓武天皇は即位後すぐにその陵を田原東陵へ改葬するよう指示し、現在の場所に移されました。
奈良市此瀬町にある「太安萬侶墓(太安万侶墓)」は、1979(昭和54)年に発見された奈良時代の火葬墓で、木櫃の下に置かれていた銅板墓誌から太安万侶の墓と判明しました。国史跡。
近隣には大野町という地名も残っており、昔から太安万侶の墓があったのではないかと言われていました。
万葉集の歌人として知られる光仁天皇の父志貴親王の御陵です。 62才で即位した光仁天皇は、父を春日宮天皇と追尊し墓を陵に改めました。 天皇陵の入口付近には、志貴親王が詠んだ万葉歌の碑が建てられています。
無形民俗文化財に指定されている神事芸能は秋祭りに敬神講の人達によって、翁舞をはじめ田楽系の相撲など5つの芸能が奉納されていいます。又、太刀一対と仮面10面が伝わっています。
九頭神社から白砂川沿いに北へ行くと森が見えます。九頭神社の御旅所、田部(たべ)神社です。
10月10日に行われる九頭神社での神事、田部神社へお渡りは
狭川の神事芸能として県の無形民俗文化財に指定されています。
木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。山号は小田原山、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来します。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重です。
岩船寺(がんせんじ)は、京都府木津川市加茂町岩船にある真言律宗の寺院。山号は高雄山(こうゆうざん)。本尊は阿弥陀如来。開山は行基と伝える。アジサイの名所として知られる。
岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。
岩船寺
https://gansenji.or.jp/
祭神は高御産日神・神産日神・玉積日神・足産日神・事代主神・大宮売日神・生産日神・御食津神の八神を祀っている。
ユネスコ無形文化遺産に登録された「題目立(だいもくたて)」を奉納することで知られている。毎年10月12日の宵宮祭の日に奈良市上深川町の青年たちによって演じられます。
古くから大和川と木津川の分岐を司る水の神として崇敬されてきた。室町時代に建てられた総丹塗の本殿(重要文化財)は、一間社春日造、檜皮葺き。瑞垣がめぐり、正面に中門、その前に拝殿、能舞台、左右に直会殿、神興舎、宝物殿が配置されている。また、本殿前には鎌倉時代末期作といわれる1対の狛犬(重要文化財)がある。
古代、「闘鶏(つげ)」と呼ばれる王国があったとされ、その存在は『日本書紀』などの古代の文献に残されています。
「三陵墓古墳群史跡公園」は3基の古墳から成り、いずれも奈良県指定史跡となっています。それらは、その規模や築造年代から、古代の闘鶏国を支配した代々の闘鶏国造の墓ではないかと考えられています。大和高原最大級の古墳は自由に上る事ができます。
闘鶏稲置大山主命(つげいなぎ)・大鷦鷯命(おおささぎ)・額田大中彦命を祭神とする。
額田大中彦皇子が闘鶏の地に狩猟に来た際、初めて氷室を発見し、以後、御所に氷を献上して当地に氷室の神を祭ったのがはじまり。「氷の神」を祀る事で有名で、全国の氷室神社の総本山とも言える由緒ある神社です。